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歴史探検 (世界史と日本史との間)山田企画事務所

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江戸の都市計画。鈴木理生。三省堂。

エッセイ(プランナーの眼) ■■■■■
Y001
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●江戸の都市計画。鈴木理生。三省堂。1988年初版。1800円
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いろいろな武将を、情報空間の設計者と考えて、どのような、経済・情報政策
を考えたかを思い起こしながら、観光すると楽しいと思います。
従来では教えられなかった、流通経済政策。情報政策などをかんがえて見まし
ょう。歴史研究書を読むと、経済にかんする視線があると、別の見方、考えた
方があると理解できます。
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で、山田は研究者、学者ではなく、歴史が趣味の人ですから、情報の使い方は
ご注意下さい。学説等の検証は行っておりません。また、質問があってもお答
えできません。20年程前に江戸本のブームがあり、江戸本が多数発行されま
したが、その折りの定番本がこれでしょう。

面白い部分を抜き書きしていますので、興味があれば、どうぞ。
江戸と紀州の思わぬ関係。経済活動による湊の繁盛。各武将の経済政策等。
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●江戸の都市計画。鈴木理生。三省堂。1988年初版。1800円
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■P159■(以降この本のページ数です)江戸の意味合い。
江戸の意味合い。というのは、日本人社会がはじめてその基盤を沖積土地にお
き、海を埋め立てて海上に進出した場所であった。大量輸送手段としての水運
基地の確保した。

江戸の建設は、1590年から1660年までの70年の及ぶ大建設であった。
いわゆる天下普請である。天下人が命じた工事であった。かって家康は、名護
屋城(佐賀)、伏見城(京都)の秀吉のお手伝い普請をしていた。日比谷入り
江埋め立ては重要な工事であった。ここで江戸城と江戸前島(元鎌倉・円覚寺
領であり前島村)一体化。沖積地不足であり、軍港日比谷入江に敵船が入るの
防ぐ事を行う。つまり日比谷は湊の位置にあったわけです。八丁堀は大航海時
代の湊町都市施設であり、うり二つの例でバタビア港現インドネシア・ジャカ
ルタ)がある。

■P156■
徳川は円覚寺領江戸前島を横領した。対岸の江戸城入場。江戸前島は円覚寺寺
務所があり所長は長吏(ちょうり)と呼ばれた。ここで浦銭を徴収、これは港
湾施設使用料にあたる。頼朝の命令で、摂津池田から江戸にきた浅草団左衛門
由来書の書類が残っている。ここでは近世までの外貨(永楽銭)が多く流通し
ていた。これは徳川の侍たちに強い印象を与える。国際的な貨幣の流通状態が
あった。

(ここから時代は遡って)
■P31■アヅミ族の話
アヅミ族という日本列島の多くの地方に中国大陸南方から黒潮にのって、いわ
ゆる海上の道(柳田国男説)をとうり、渡来してきた方々が、東京湾から利根
川水系まで、時期を事にする集団が分け入って土着していった。日本列島は、
なうての森林地帯。温帯針葉樹林に覆われ、たやすく陸地に踏む込めない。そ
れゆえ、川筋をたどっていく。海からの塩の流通を握るアヅミ族は歓迎される
人々であった。アヅミ族は、河口から河口へたどっていく。また、河口から川
をさかのぼるグループもでていく。房総地方の国造り数の多い理由は、この地
に渡来人たちの最初の到着地と考えられる。
■P71■
7世紀から12世紀までの、西南日本の東国(むろん日本の)攻撃の最大理由
は、東北の豊富な金属資源、冶金技術獲得、戦力・輸送力の良馬の獲得である

■P84■鎌倉のウオーターフロント計画・朝比奈切通
鎌倉のウオーターフロント計画があり。舟道の延長としての道路。東京湾と鎌
倉を結ぶ最短距離の道路開発が行われ、仁治2年(1241)、朝比奈切通の
開通で、南関東の交通事情はいっぺんした。いわゆる今で言う「鎌倉新幹線」
であった。鎌倉幕府は経済的基盤を確立させるため農地開発を盛んに行った。
利根川水系を利用し、埼玉平野、東京下町低地を水田地帯にしていく。

■P77■江戸重長と大田道灌
頼朝の敵のひとりが、板東8カ国の大福長者である江戸重長で、現在の皇居
東御苑付近に居住していた。ただしこのエリアは熊野信仰の熊野の御師(伝道
者)が握っていた。中世の情報・物流の中心は、この熊野の御師が握っていた。

1252年鎌倉幕府6代将軍、宗尊親王が赴任。この将軍の介錯人(後見人)
として丹波の国上杉庄(京都府)地頭上杉重不房が同道。家来として五個荘
住人、太田資国も、ともとして赴任。大田道灌は6代目子孫である。

この江戸氏を追放し、江戸城を再構築したのがこの大田道灌。1457年に
江戸城完成。1486年に暗殺された。道灌は今の御殿山にいた。
目黒川河口にあった品川湊は、紀州財閥の根拠地であったが、道灌は品川湊か
ら離れ江戸湊で城を建設。品川湊は日蓮宗の支配地、禅宗臨済宗である鎌倉円
覚寺領の江戸湊へ道灌は移住する。それほど江戸湊の経済力は魅力的であった。

■P112■
傭兵の市場が、ここ江戸湊にあって、傭兵の輸出先は和冦の補充要員、中国の
泉州とのかかわりもあった。江戸には人家が続き、東武の一都会、北方「浅草
の浜」の巨殿宝房の美は、数十里の海に映えそびえていた。傭兵するのは現金
がいり、その銭が流通していりのは、諸国の湊である。

■P109■
鎌倉5山は、宗教統制組織、日明貿易の外務省、通産省の役割でありこの経済
僧たちと大田道灌は交際が盛んであり、資料が残っている。

■P124■信長。秀吉。家康の都市戦略
信長。秀吉。家康の都市戦略はどうか。
信長は、琵琶湖及び沖積地制圧。若狭に代表される日本海海運と、淀川沖積地
を結びつける安土中心に琵琶湖水運の広域化を図る。秀吉は、京都南端に伏見
湊を建設し京都の水運都市化を実現。淀川河口である大阪にて、瀬戸内海運と
の一体化を行う。

安濃津のある尾張平野に育った信長・秀吉の悲願は、大阪の近世都市化により
機内水運の一体化、と日本海海運と瀬戸内海運の一体化の実現であり、これが
天下統一の決定的条件であった。ローカル経済圏を数珠つなぎして広域化。全
国的な水運網を組織した。以上が天下統一の側面である。

軍隊・軍需品の大量輸送と広域流通の確立が必要になり、河川内水面・海上輸
送網の充実。川と海の接点である河口に都市をつくる。城が戦術施設から戦略
施設(物資の集積基地)に変化。城の都市化現象である。


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